2012年5月9日水曜日

日銀審議委員になれなかった河野龍太郎の戯れ言

参院が審議委員就任を拒否したのは、至極妥当な判断である

御用エコノミスト 河野龍太郎 を日銀審議委員に起用する人事案が否決されたのは、今を去ることひと月ほどまえの4月5日である。財務省・日銀御用エコノミストである河野の姿勢は、徹底的にデフレ容認、インフレ政策の拒否というものである。

2012年4月5日以降の各メディア論評を眺めていると、相も変わらず日銀の国債買取が「ハイパーインフレーション」に繋がるといった印象操作が繰り返されている。しかしながら、参議院が、「河野では、デフレ脱却はできない」と、審議委員就任を拒否したのは、至極妥当な判断である。

河野氏の人事案否決を受け、毎日新聞は「日銀への政治介入 信用落とす愚行やめよ」というタイトルの「社説」を書いていた。他のメディアも似たり寄ったりである。社説である以上、毎日新聞が「社」の基本姿勢として参議院による人事案否決を「政治介入」と主張しているわけである。
だが、参議院が行ったことは、日銀審議委員の人事案に不同意をしたということである。日銀法という法律によって参議院に与えられた権限を行使したことが、どうして「政治介入」という評価に繋がるのであろうか。毎日新聞社こそ、審議という日本語の意味が全く判っていない、さらには、民主主義という理念を根本的に誤解しているとの批判を免れないのではないか。

「審議」とは何か?似通った金融政策を掲げる審議委員を並べて有効・適切な対処案が見つかると、毎日新聞社は本気で思っているのか。間違いなく「審議」は様々な立場からの多様な意見が出てきて初めて充実するものである。我々は、絶対的な正解に辿り着くことの尋常ならざる困難さを十分に理解しているからこそ、慎重な討議を重ね、少しでも最善の解を導くため、審議をするのではないか。そのような民主主義国家における審議の重要性を自覚しているからこそ、多様な意見が反映するようなシステムをこそ最大限に尊重する、尊重せざるを得ないのである。

同じような意見しか出ない審議委員を拒絶して、何か批判されるべきことがあるのだろうか。原子力行政を考えてみると分かり易い。大手マスコミは、原発問題になると、原子力ムラなどというレッテル貼りによって、従来の偏向した規制庁の人選を平気で批判するではないか。なぜ、日銀の審議委員の話になると、こうもあからさまなダブルスタンダードで社説を書くことができるモノかと理解に苦しむ。

河野の恨み節は、その後も続々と…

毎日新聞の2012年4月7日の記事をみてみよう。河野の反論を掲載している。

河野氏は政治家の役割について
「厳しい(財政の)現実を有権者に説明し、解決のための負担の受け入れを説得すること」と指摘。
「そうした役割を担う人が現実離れした金融政策を提示して『国民の負担が軽減される』といった甘言を振りまいていないか」と疑問を呈し、「大規模な金融緩和で高成長が達成可能。増税は不要」との根拠のない論理が政界で横行していることを批判した。
日銀に対して金融緩和拡大を求める政治的圧力が強まっていることについては
「(国の借金の尻ぬぐいを目的とした中央銀行の)国債引き受けの誘惑から社会を守るための『(中銀の)政治からの独立』が骨抜きにされていくのでは」と懸念を示した。

恨み節もここまでくると哀れですらある。そして、この反論について、他方の予想される再反論を示すことなく、そのまま掲載する毎日新聞の軽率さにも、怒りを通り越して、呆れるばかりである。一エコノミストが政治家の役割を大上段に語っているが、「厳しい財政の現実」は、この御用エコノミストに言われなくても多くの国民は判っているから大きなお世話だ。河野が拒絶されたのは、既に日銀審議委員の大多数を占める財務省・日銀ムラの審議委員に対して意見の多様性を確保できるに足りる能力を全く満たしていないと判断された、ただそれだけのことである。にも関わらず、よりにもよって政治家が有権者に甘言を弄しているといった議論のすり替えを行う河野は、有権者たる日本国民をどこまでバカにすれば済むのだろうか、との念を禁じ得ない。ただの経済をそこそこ勉強した男に、「根拠のない論理」が「政界で横行」などの民主主義を完全に否定する暴言を吐く権利など、一片もない。これは、批判ではなく、ただの暴言である。しかも、エリート意識丸出しの河野の恨み節は、まさに一般国民をバカにした暴言である。

次に、西日本新聞の4月27日の記事をみてみよう。
「民主主義国家で、選挙で選ばれる代表者は、有権者に負担を求める選択がなかなかできない。
公的債務の膨張は、負担を将来世代に押しつけることにほかならない。国債を大量に買う日銀の政策は、すでに財政ファイナンス(中央銀行による財政赤字の穴埋め)の領域に近づいている。
その帰結は高率のインフレになることが分かっているから、戦後、中銀には独立性が与えられてきた。それを覆そうとする動きが起きているのは非常に懸念される」

ここでも、恨み節全開である。そして西日本新聞の記者も、この河野の暴言に対しての再反論を一切記してはいない。審議とは何か、審議委員の役割とは、そして、民主主義の理念とは何かという根本的な問題について、河野もマスコミも全く触れようとしていない。ただただ、政治家は国民に受けのよい甘い政策しか吐かず、国民は盲目的にそれに酔いしれるという、極めて一方的な論調しか見いだすことができない。河野のような意見は、既存の審議委員の中に既に十分に溢れているから、河野は不要なのだ。ただそれだけの単純なことを、国民をバカにした言説にすり替えている。

マスコミが全く報じない河野の極端な変節ぶり

マスコミが伝えない重要な事実として、河野の驚くべき変節が挙げられる。
以下、三橋貴明の<ウラ読み>経済レポートから引用する。


先日、参議院で日銀審議委員就任の人事案を否決された
BNPパリバ証券の河野龍太郎氏は、
90年代後半は、まことに非の打ち所がない「デフレ対策」を主張していました。
日銀は「物価上昇」を目標に据え、政府は財政出動で有効需要を造れというもので、
わたくしが日頃、書いたり言ったりしていることとほとんど変わりがありません。
この河野氏が
「ある日、突然」、日本のデフレを容認するようになってしまいました。
すなわち、日銀のデフレ政策に賛同するようになってしまったわけです。
一体、河野氏の転身あるいは「変節」の理由は何だったのでしょうか。
ある方は、
河野氏が「外資系シンクタンク」に移った途端に、
言っていることがガラリと変わった
と教えて下さいました。
別に、陰謀論を語りたいわけではありませんが、
河野氏の様変わりはどう考えても不自然です。
何しろ、言っていることが突然「真逆」になったわけです。
例えば、日本がインフレになれば、
わたくしにしても言っていることが真逆になります。
すなわち、わたくしとて、
「増税しろ」「日銀は金融を引き締めろ」「政府は公共事業などの支出を削れ」
と言い出すつもりなのです。
とはいえ、
「環境が変われば、ソリューション(解決策)も変わる」
というのは当たり前の話で、
「日本はデフレから脱却し、インフレ局面に入った。
しかも、インフレ率が上昇してきている。
当然、以前とは異なり、緊縮財政や金融引き締めなどの
インフレ対策を実施しなければならない」と説明すれば済む話です。
ところが、
河野氏の場合は、
日本経済の環境(デフレ)が変わっていないにも関わらず、
主張が真逆になり、
デフレ対策ではなく「インフレ対策」を主張し始めたわけです。
どう考えても、納得ができません。
日本銀行の方は、相変わらず、
総裁自ら「膨大な通貨供給は制御できないインフレをもたらす」
といった抽象論でデフレ対策を拒否し続けています。
河野氏は、この日銀の姿勢を猛烈にプッシュしており、
現時点で日銀審議委員などになられた日には、国民が大迷惑します。
逆に、河野氏が以前のスタイルのままであれば、
わたくしにしても氏の日銀審議委員就任を喜んだと思います。
それにしても、
人間がここまで真逆になれるものなのでしょうか。疑問が尽きません。
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⇒ http://archive.mag2.com/0001007984/index.html
さらには、「論争 東洋経済 1998.9 河野龍太郎 第一生命経済研究所主任研究員」』の記事内容が、三橋氏のブログに掲載されている。

学者と呼ばれる人種は、そう簡単に根本となる主義・主張を変えるものではない。そのような変節は学者生命に関わるからだ。この10年ほどの間にみられた河野の変節は、たとえて言えば、刑法学者が結果無価値論から行為無価値論に鞍替えするようなものだ。刑法学者がそのような人生の根本理念を変えるような行動を採った場合、学会で死亡宣告を受けたに等しい扱いを受けることになるだろう。このような芸当をやってのけることができるのは、御用学者としてしぶとく生き残る道を選んだ者に限られる。御用学者は、もはや学者ではない。真理を追究したいのではなく、従前のメシの食い方を変えたくないばかりに、権力にすり寄って生き長らえることに何の躊躇もない人種に堕することを意味する。

その時点では少数意見に過ぎない意見であっても、審議の過程で多数意見を説得し、よりよい意見として発展していくことを目指すのが、真の民主主義であり、そうした民主主義を支えるのが審議という討論過程である。その審議を実際に行う審議委員には、多様な意見が必須であり、そこで主張される意見には確固たる信念が宿ってくれていなくては困る。ブレまくる意見など、真の民主主義、審議にとっては有害以外の何者でもない。

この、河野という人物の凄まじい変節ひとつをとっても、審議委員という重責を担わせることができないことを十分に示しているといってよい。このような人物の言説を一方的にまき散らし、反対意見を封殺する大手マスコミは、河野を御用エコノミストと呼んで差し支えないのと、同様、御用マスコミと呼んで、全く差し支えないだろう。

河野龍太郎氏の日銀審議委員就任を断固阻止せよ!!
政府の日銀人事に異論あり 河野龍太郎抜擢の件

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